脱落系女子、

線維筋痛症と闘う、ぼくのゆるい備忘録。

【虚弱体質】わたしというにんげん。其の壱。【甲状腺疾患(バセドウ・橋本病)と線維筋痛症の併発】

 

 

わたしは幼いころから、いわゆる虚弱体質だった。

頭の先から脚先まで痛くない箇所はなかったし、幼稚園の天井と床がぐらぐらと反転・暗転し続けるような眩暈を起こすのも日常茶飯事。

そして幼少期は特に、それが特別なこととは考えていなかった。

なぜならほかのひとも、おんなじように痛みを抱えていて、おんなじように視界――及び世界が回転していることが当たり前だとおもっていたからだ。

そりゃあそうだ。ほかのひとの感覚なんて知らないのだし。こどもだったなら、なおのこと、それを疑う理由なんて見当たらない。

 

ただ、わたしの場合。軽く脚がぶつかったり、背中に手が触れたり。そんな軽い身体的接触だけでも、つよい痛みが走っていたから。

よく母親には「なんて大袈裟な子なんだろう」と呆れられていたし、また、時に叱られた。

そうは言われても痛いのは事実だった。しかしほかの子達はなんてことない顔をしているから。確かに自分は大袈裟で、もっと言えば耐性がなくて、精神的に脆弱なのかもしれない。なんて幼いながらに考えてしまった。

 

この思考こそが後の人生にも大きく影響を与えるきっかけとなる。

 

ほかのみんなは、この痛みを抱えながらでも、頑張れているのに……。

わたしときたら、直ぐに疲れて体調を崩し、寝込んでしまう。

周囲からは怠けているとおもわれた。当然、親にさえも。

だからわたしはいっそう己を奮い立たせた。誰よりも劣っているのだから、誰よりも努力する必要があるのだ。みんな、こんなわたしよりもずっとずっともっと、頑張っているんだ。すべてはわたしの怠惰な性格が原因で、わたしが頑張っていないことが要因。わたしが悪。絶対的悪。もっと、もっと、もっと頑張ろう。いいこになろう。ママに褒めてもらおう。

 

わたしの生き方の基盤は、齢3歳のころには既に、仕上がっていたようにおもう。

 

さて。

わたしの家族の話をしよう。

父・父方の祖母・母・長男・長女・次男・わたし。七人家族だった。

結構な大所帯だった、と、おもう。

四人兄弟の末っ子というポジション。それもあってコンプレックスが大きかった。上の兄弟からはみな、「甘やかされて育ちやがって」という目線を向けられてきたから。今となっては当時は我儘だったと反省している。(ただ、わたしが物心付く前から家庭は崩壊寸前だったし、のちに母親が語ってくれて知ったのだが、彼女も四人育てるのは大変だったゆえに、わたしは半ば放置されていたという。)

 

そう、我が家はそれはもう、ひどい家庭環境だった。

父親(父親、と呼ぶことさえおぞましい……。)の借金や、暴力。不倫。そういうものが重なって、常に家の中は戦争状態。物は壊れて、母親は階段から突き落とされたり。祖母から執拗に嫌がらせを受けたり。

わたし自身も、赤子のころではあったが、父親から殴られた記憶がある。それも、指輪を嵌めた拳で、だ。そんな衝撃的な、記憶。こう考えると、母親や、ほかの兄弟たちはどんなに痛い目に遭わされたのだろうか。想像も出来ない。

 

そして。

 

それこそ、忘れもしない。

わたしが小学一年生の。十二月二十日。

さむい寒い、ふゆの日。

家を出た。

母はわたしたち四人の子を引き連れて。

 

 

続。

 

 

 

「線維筋痛症」のわたしが人生に絶望したバレンタインの午前4時。

 

 

仕事が出来ない。呼吸もままならない。線維筋痛症は生き地獄です。

 

ねむれずにバレンタインの朝を迎えた。

しあわせをともに分かち合う人間もいない、

そう、いつもと変わらぬ絶望の朝だった。

ねむろうにも、いたむのだ、身体が。

それは、痛みだけで意識を手離してしまえるほどの、

鮮烈なもの。

それなのに、その痛みで目を覚ます。

くりかえし、繰り返し。

呼吸をしようにも背中が硬直していて、

じょうずに出来ない。

内臓が軋む音すらする。

毎夜毎夜、それを抱えながら、時に、憂き世のやるせなさに喘ぎながら、次の日を迎える。

わたしにとってはそれはもはや、朝ではない。

地獄のような夜の延長線。延長戦なのである。

 

わたしは今日、仕事を休んだ。

 

全身が常時、激しく痛む病、線維筋痛症。これだけ文字にしたってその苦難はきっと、誰にも伝えられないだろう。

とにかくベッドから起き上がれなくて。泣く泣く、仕事を休む連絡をした。

ここでふと、今後どうやって生きてゆこう、と、お決まりの自問自答が始まるのだ。

まともに働くことも出来ない。事情があって家族を頼れない。(家族については今後語ることにして。)

病気を持ちながらも、貯金がゼロでも(このあたりも追々語ることにして。)ひとりぐらしをはじめたばかりの22歳のわたしは、ひどく悩んでいた。

こんな身体なので、まともに就職するのはこわく、アルバイトで生計を立てている。

我ながら馬鹿だとは思うが、それも、アパレル販売員。夜はバーテンダー見習い。

立ち仕事。体力仕事。

いやあ……ほんとうに、自分でもどうかしている。

 

? なぜ、バレンタインの朝に、ことばを紡ぎたくなったのか。

 

わからない。

ただただ、わたしは、生きたいとおもった。

 

生き地獄を生きると決めた。

 

その、決意表明の、朝なのだ。

絶望して、人生脱落系女子となったからこそ。

一周まわって開き直った。

そうだ、わたしは一度、死んだのだ。

 

線維筋痛症にくるしむひと。

線維筋痛症を知らぬひと。

この病気でなくても、ひとはみな、生きながらにして傷を抱えているから。

ひとりひとりと、ことばを通して、魂の交流がしたいと思った――――、なんて綴るといささか大仰。

 

もっとシンプルに、ゆるく、わたしが生きた一日を。

触れた空気から感ずる香りを。

絶望しながらも諦めきれない悪あがきを。

一秒ごとに死んで、一秒ごとに息を吹き返し続ける

茶番劇を。

 

ここに遺して。

「わかるー」「それなー」「生きてるだけでえらーい」とか、

いわゆる青春っぽいことがしてみたい。

ここはあれです。ファストフード店

 

そしてまあ、あわよくば。この病気がどういうものなのか、理解してもらいたかったりとか。この病気と上手に生きてゆく方法を模索したかったりとか。

そんな魂胆があったりもする。

 

 

! だから、ブログをはじめた。

ずっと挑戦してみたかったことをはじめた。

病気を理由にして逃げてばっかりだったから。

その病気を利用して、すきなことをやってみようとおもった。

 

 

いまはひとまず、ここまで。

わたしというにんげんが、どんなにんげんなのかは、きっと次の記事あたりで。

たぶん。おそらく。